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| (10)「---迷宮・動詞エリアの不思議スポット―― “晒太阳 shài tài yáng”---太陽を日干しにする??! |
「天高く輝く母なる星、それが太陽だ。46億年前、原始太陽のドラマチックな営みから生まれたのが私たちの住むこの地球だ」、と科学雑誌は説く。 そうです、太陽の光と熱の豊かな恵みを受ける水の惑星・奇跡の星、それが私達の地球です。そして、太陽なくしては生きられない人類。そんな尊崇すべき命の恩人――太陽をこともあろうに「日干し」にするとは、不届き千万ではないか。そうですとも!いかにも、“晒”の基本義は“太阳把光和热照射到物体上”=「物体に対して太陽が照りつける、つまり日干しにする」である。そこから類推すると、“晒太阳 shài tài yáng”=「太陽を日干しにする」、となってしまう。でも、これ、なんだか変ですよね。第一、「太陽を日干しにする」ことなどあり得ないのは、明々白々。結論を先に言うと、“晒太阳”の正解は「日向ぼっこする」「日光浴する」です。しかし、この程度の生半可な説明では、学習者のみなさんはなかなか納得が行かない。わけを聞くと、“晒衣服”は「衣類を干す」、“晒粮食”「穀物を日干しする」、“晒书”は「書物を虫干しする」、だから、“晒太阳”は太陽を日干しにする、これ以外に解釈のしようがない、と。根拠を挙げよというなら、「目的語は他動詞の示す動作の対象だから、だと。 なるほど、一理ありますね。外形からみて、両方とも「動詞“晒”+目的語(宾语=客語)」にはなっている。ですが、目的語をよくみると、“粮食”“衣服”“书”はいずれも地上の物体で、太陽光線を浴びる受け手ですが、“太阳”だけは天体で、しかも、動作の受け手ではありません。それどころか逆です。“晒”=「光と熱を照射する」、「日干しにする」という動作の主体は、ほかならぬ“太阳”自身なのです。はて、どうしたものか?いっそのこと、太陽が二つあって、“太阳A晒太阳B”ならば、“太阳A”が“太阳B”を日干しにすることもできそうだが、それは太陽系ではあり得ない話です。さて、この混乱の奥で、いったい何が起きているのでしょうか?これが今回の話題です。 たしかに、“我晒衣服”のように、人物+晒+物体ならば、人が太陽熱を利用して衣類などの物体を日干しするとか、日に当てる、日に晒らすなどとなる。ところが、そうではなく、センテンスの中に“晒”の目的語たる物体(衣服、粮食、书)が一つも介在せず、ただ単に“我晒太阳”=人物+晒+太陽、つまり、ヒトと太陽の両者のみが相まみえている単純な構図なのです。大相撲で言うと、“我”と“太阳”の両力士ががっぷりと四つに組んで直接対決している図である。こうなると、読者の皆さんも“晒太阳”はどうやら「訳あり」で、“晒衣服”の類とは異なるから、別格扱いにするべき事例であることをもう薄々感じておられると思う。まず言えるのは、“我”は太陽エネルギーを持たない以上、太陽を日干しにすることなどは、到底できっこない。逆に「日向ぼっこする」というのも、文法の筋として飛躍があり過ぎて、腑に落ちない。これは大きなジレンマだ。ここから抜け出すのに、一部の学者は次のような新しい理屈を編み出した。 1)“晒太阳”の太陽は、(晒=)照射するターゲット(対象)ではなく、照射するのに使われる道具なのである。 2)“晒”は太陽の立場からいえば、「光と熱を物体に照射する」ですが、ヒトの立場からいうと、「太陽の光熱を浴びる」という意味に転用して使える。 これは、いかにも人間中心主義の考え方ですね。こうして、この1)「太陽道具説」と、2)「太陽光熱受容説」の助けを借りれば、“我晒太阳” の“晒太阳”の意味を再構成することができるようになる。 その意味は、“我利用阳光晒我的身体”=「私は太陽の光と熱を利用して、それを自分の体に当てる」となるのです。なんと、“太阳”の陰に隠れていた真の目的語は、じつは“我的身体”だったのです。言い方を変えると、主語の“我”は“在太阳光下接受光和热”、つまり自分の意志で日光浴するというわけです。では、ここで、関連質問を一つ。太陽が動作“晒”の主体ならば、太陽を主語にして、“太阳晒我”といえるのか?また、もし、この言い方が成り立つならば、その意味は何か?はい、答えは、文としては成り立つ。が、意味は“我晒太阳”とは違い、「太陽が私を照り付ける」となり、のんびりと日向ぼっこするどころか、太陽のきつい照り付けに困惑するような意味合いになってしまう。日常会話の例文を一つ挙げると、“太阳晒得我直流汗”。(この句のイメージは「カンカン照りに見舞われて、私は滝の汗だ」です) |